大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

長野地方裁判所 昭和36年(行)1号 判決 1964年6月02日

原告 丸山喜久 外四六名

被告 長野県

主文

一、原告らの請求を棄却する。

二、訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

(請求の趣旨)

一、原告らが「長野県立学校職員の勤務評定実施要領」(昭和三四年二月九日、三四教高第三一号教育長通達)及び同別冊「勘務評定書の様式および使用区分ならびに取扱要領」に定める自己観察表示の義務を有しないことを確認する。

二、訴訟費用は被告の負担とする。

(請求の原因)

一、自己観察表示義務の発生

原告らは長野県教育委員会(以下県教委という。)の任命を受けて別紙一記載の長野県立各高等学校教諭として勤務しているものであるところ、県教委は昭和三四年二月九日「長野県立学校職員の勤務成績の評定に関する規則」(長野県教育委員会規則第一号。以下規則という。)を制定公布し、(同年四月一日施行)県教委教育長(以下単に教育長という。)は右規則第六条第二項及び第九条の委任にもとづき、同日「長野県立学校職員の勤務評定実施要領」(三四教高第三一号教育長通達。以下実施要領という。)及び別冊「勤務評定書の様式および使用区分ならびに取扱要領」(以下別冊という。)を定めて県立各高等学校にあて通達した。右別冊によれば長野県立高等学校教諭に対する勤務評定書(別冊第二表)はA及びBから成り、Aは評定書である校長が記入すべきものであるが、Bは被評定者自身が記入して評定者に提出すべきものである。そして右評定書Bの中に「自己観察ならびに希望事項」という欄がもうけられ、被評定者が自己評価にもとづいて別紙二記載の評定書Aの観察内容や評定書Bの各項目(担当授業、特別教育活動、校務分掌、研究事項、研究発表、身体状況、その他)等を参考にして、職務について、勤務について、研修について、その他について、つとめて具体的に記入すべきものとされている(別冊二、勤務評定書の取扱要項3評定書Bの取扱指針(二五))。

ところで、原告らは前記実施要領及び別冊(以下両者を併せて通達という。)が各所属高等学校長に到達した昭和三四年二月九日頃規則施行の日である同年四月一日以降毎年右通達の定めるところに従い評定書Bの所定欄に自己観察の結果を表示すべき抽象的かつ具体的義務を負うことになつたものである。すなわち右通達は極めて具体的かつ直接的に評定書Bの記載内容及び様式を定めており、その冒頭記載には校長に対し教職員に単に「周知徹底方配慮」を要請しているに止まり、改めて教職員に評定書Bの記入提出を命ずべきことを指示しておらず、その後各教職員にも右通達の写が配布されていることから、右通達は形式こそ各県立学校長あての職務命令であるが、実質的には同時に直接教職員にあてた職務命令であると解すべきである。

仮に右通達が各学校長に到達しただけでは原告らに自己観察表示の具体的義務が発生しないとすれば、原告らは昭和三四年以降毎年八月末より九月末にかけて各所属学校長から前記評定書Bを提出すべき旨の職務命令を受けたことにより、それぞれ該年度の自己観察表示の具体的義務を負うことになつたものである。

二、規則制定に至る経緯

県教委が前記規則を制定公布するに先立ち、文部省の指導にもとづく都道府県教育長協議会は昭和三二年一〇月二四日教職員に対する勤務評定実施を決議し、同年一二月教職員の勤務評定試案(以下全国試案という。)を作成公表し、県教委は昭和三三年四月一五日勤務評定を年内に実施するとの意向を発表した。これに対し、長野県教職員組合(以下県教組という。)、長野県高等学校教職員組合(以下県高教組という。)はもとより、高校長会、P・T・A、信濃教育会がこぞつて県教委に慎重考慮を要望したが、県教委は同年七月七日全国試案に殆んど準拠して規則試案を作成し、教職員に対する勤評実施の意向を示した。県教組及び県高教組は、はげしくこれに反対し闘争を行つたので、県教委はその後全国試案をやや簡略化した程度の修正を行つて当面を糊塗しようとしたが、組合側の態度は変らず依然紛糾が続いた。同年一一月一三日長野県知事林虎雄は両者に対し、審議会を設置して勤評実施の可否を含め検討する旨の調停申出をなしたところ、両者ともにこれを受諾したので、県教委の諮問機関として教職員の勤務評定に関する審議会(会長松岡弘)が設置され、同審議会は同月二六日の初会合以後数次にわたつて研究、討議を重ねた結果、昭和三四年一月二六日勤務評定の取扱につき、(1)勤評は実施規則を設けて実施する(2)昭和三三年度内に実施規則を設定し、昭和三四年度から実施する(3)評定の内容は県教委の最終案をもとに評定者の記入する評定書と被評定者の記入する自己反省記録の二本立としてこれを同等に扱うことという趣旨の答申を行つた。林知事は同年二月二日両者に対し右答申どおりの調停案を示し、県教委はこれを受諾したが、県教組及び県高教組はいずれもこれを拒否したので調停は不成立に終つたのである。ところが県教委は同年二月九日前記のとおり規則等を制定し、同年四月一日から勤務評定を実施したのである。

三、教職員に対する勤務評定の違法性

勤務評定を教師に対して実施することは不可能であり、あえてこれを実施することは違法である。

教育公務員特例法(昭和二四年一月一二日、法律第一号)第三条は公立学校の職員は地方公務員としての身分を有すると規定するところ、地方公務員法第四〇条第一項は、「任命権者は、職員の執務について定期的に勤務成績の評定を行い、その評定の結果に応じた措置を講じなければならない。」と規定する。そして昭和二七年四月一九日人事院規則一〇―二によれば勤務評定は人事の公正な基礎の一つとするために、職員の執務について勤務成績を評定し、これを記録することをいうのであり(第一条第一項)、勤務評定は職員が割り当てられた職務と責任を遂行した実績を当該官職の職務遂行の基準に照らして評定し、並びに執務に関連して見られた職員の性格、能力及び適性を公正に示すものでなければならない(第二条第一項)とされているが、右は地方公務員や教育公務員についても同様と解すべきである。そうだとすれば右のような要件をみたしたものであつてはじめて法の要求している勤務評定であり、これをみたさない勤務評定を実施することは違法であると解すべきである。

ところが、右の条件をみたした教師に対する勤務評定を作成することは不可能に近いほど困難である。すなわち、(1)教師がその割当てられた職務と責任を遂行した「実績」とは個々の教師がその担当する学級の生徒の全部について教育基本法第一条に記載された教育の目的をその教育活動を通じていかによく達成したかということ、すなわち教育の成果をいかにあげているかということであるが、これを評定することは不可能である。教育の効果実績は会社や工場や役所の事務の能率とは異なり、人間の成長に関するものであつて一朝一夕にあらわれるものではないからである。(2)教育実績とは関係なく教師がいかにその割当てられた「職務を遂行」しているかという面においてもこれを評定することは不可能である。すなわち教師の本務とみられる職務として、教科学習の指導、生活指導、それらの指導計画の立案、教材研究、成績物の処理、研修、学校学級の経営に必要な各種協議会、各種テスト、父兄との話合い、学校行事の遂行等があるが、教師のこれらの職務についての地道な努力を点数で評価することは到底できないのである。もつとも校長、教育委員会、文部省等の命令によつてなすべきものとされている事務についての評定は、一般の事務職員の場合と同じく可能かも知れないが、それらの事務は教師本来の事務とは無関係な仕事がきわめて多く、これらについての評定ははたして教師としての適性、能力等についての勤務評定といいうるかどうか疑わしい。(3)教師は任命権者の指揮命令の下に教育をしているのでなく、その教育内容についても教育方法についても一人の教育者(教育専門家)として独自の判断と意見に従つて、その最善をつくすべき立場にある。第三者である評定者は勤務の実績を真に適確に評定しうる立場にはいないのである。

以上のとおり教職員に対する勤務評定の実施は不可能であるのにかかわらず、県教委が規則を制定して教職員の勤務評定を実施するに至つたのは専ら非教育的政治的意図にもとづくものであつて、その違法性は明白である。従つてその一環をなす評定書Bの記入提出義務を被評定者に課した本件職務命令も違法であることは多言を要せずして明かである。

四、本件職務命令の違憲、違法性

本件通達の教職員の自己観察に関する部分は左記の事由により違憲無効である。

自己観察ないし自己評価の意義を吟味すると、評定の期間における教育、研究等の諸活動について、各自がそれぞれの価値観(世界観、人生観、教育観等)にもとづき、(イ)自己の行為、態度実績の是非、善悪、当不当を弁別し、積極的なものの肯定と同時に欠陥としての消極的なものを否定することであり、また、(ロ)行為の原因となつた自己の思考(信条)の誤り、欠陥を承認し、さらに人格的欠陥の自認の可能性を含むものであり、さらに、(ハ)将来に向つて自認された諸欠陥に対し改善の意見を形成することである。自己観察、自己評価はこのような思惟の過程および判断の形成を意味し、これを表示することは自己観察者その人の価値観の具体的表示を伴うものである。個人の尊厳を基調とする憲法的法秩序の下においては、国民は公権力によつて、公法上の勤務関係にあると否とにかかわらず、右のような判断の形成と表示を義務づけられるものでは断じてない。その理由は次のとおりである。

(1)  「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。」(憲法第一九条)ものである。思想及び良心とは内心におけるものの見方ないし考え方(世界観、人生観、主義、信条など)をいうものであつて個人の人格の中核をなすものである。内心の自由はまた思想及び良心につき沈黙の自由を含む。ところで今日の教育科学のうえでは種々の価値観が混在し、現実の教育理念においてもまた教職員の関係の教育研究運動に代表されるものと文部省等教育行政庁の指導する公教育の理念との間には少からざる対立が存することは公知の事実である。この事情のもとに教師としての原告らが本件自己観察義務の履行を通じて自己の社会的、教育的価値観を具体的に表示、報告する義務を公権力をもつて強制されることは、原告らの基本的人権たる内心の自由を侵害することはなはだしいものであつて、憲法第一九条に違反する。

(2)  「表現の自由」(憲法第二一条第一項)は他面において沈黙の自由をも含むものであるから単なる事実の認識の範囲を超えて内心の自由に属する特定の判断の表示を公法上義務づけることは憲法第二一条に違反する。

(3)  「教育公務員はその職責を遂行するために絶えず研究と修養に努めなければならない。」(教育公務員特例法第一九条第一項)とされているが、これは事がらの性質上教師の自律的任務を一般的に指示したものであつて行政庁が個人の研修の内部に介入することを許容したものではない。かえつて任命権者は「(研修に要す)る施設、研修を奨励するための方途その他」の実施につき、専ら外部的諸条件の整備に努めるべき責務を課せられている(同条第二項)。ところで研修とは、その重要な部分において教師の学問的活動であるが「学問の自由はこれを保障する。」(憲法第二三条)こととされ、教育の目的を達成するためには「学問の自由を尊重」するように努めなければならない(教育基本法第二条)ものとされているのであるから、公権力をもつて教師の学問的研修の過程に自己点検と反省を求め、その結果の表示報告を制度的に義務づけることは憲法第二三条及び教育基本法第二条に違反する。

(4)  長野県の地方公務員関係においては原告ら教育公務員を除いては本件職務命令の求めるような特別な義務を課せられておらず、また全国の公務員関係においても例をみない。このことは「法の下の平等」(憲法第一四条)および「平等取扱の原則」(地方公務員法第一三条)に違反し、これを是認しうるに足りる行政上の根拠を見出すことができない。

(5)  教育行政は教育環境の整備確立、即ち教育の外的事項にだけ及ぶものであつて、教員の児童生徒に対する教育の内容と方法即ち教育の内的事項には及ばず、同事項については教育に職務上の独立が認められている。このことは教育行政の教育の外的事項に対する態度を規定した教育基本法第一〇条、教員の職務内容を規定した学校教育法第二八条、これを準用する同法第五一条等からもうかがえるところであつて、基本的には学問の自由を保障する憲法第二三条に由来するところである。本件勤務評定書Bの「自己観察ならびに希望事項」欄の記載内容である(1)職務について、(2)勤務について、(3)研修について、(4)その他について、の自己評価は軽重の差はあつてもいずれも教育の内的事項にわたらざるを得ず、従つてこれの記載、提出を命ずることは教育行政の教育の内的事項に対する干渉となり憲法第二三条に違反する。

五、よつて、原告らは県教委に原告らの任免その他教育に関する事務を執行させる権利主体たる被告に対して実施要領及び別冊に定める自己観察表示の義務を有しないことの確認を求める。

(本案前の答弁に対する主張)

一、特別権力関係である公法上の勤務関係においては、公務員は一面では行政組織の内部的分肢に過ぎないが、一面では国又は公共団体に対立する一個の権利主体たる個人としての地位を有する。職務命令は行政組織の内部分肢としての公務員に対して発せられるものであるから、本来的には公務員の個人としての権利義務にかかわるものではないが、これに対する影響、干渉の度がいちじるしい場合は例外的にその個人としての権利、利益を侵害する場合が生ずることを否定できない。特に教師の職務は個人の精神的自由と深く結びつき、職務上の事項を個人的自由と分離して把えることは不可能であるから職務命令が教師個人の権利、利益を侵害するおそれは大である。従つて原告ら教師に対して自己観察表示の義務を課した職務命令が教師個人の内心の自由その他の権利、利益を侵害することを理由として原告らが個人(権利主体)としてこれを争い、裁判所に救済を求めることができることは明かである。

二、原告らは通達によつて直接かつ具体的に負担した毎年の自己観察表示義務が現在存在しないことの確認を求めているのであつて過去の法律関係の確認を求めているのではない。仮に毎年所属学校長からの職務命令によつて原告らが自己観察表示義務を負うものとすれば原告らは昭和三四年度以降毎年生じた右義務の不存在確認を求めるものであるが、右の義務も過去の法律関係ではない。すなわち評定書Bの提出期限経過後も提出義務そのものは消滅せず現在もなお存続しているのみならず、右義務違反を理由として県教委から懲戒処分、不利益転任、その他の制裁的処分を受けるおそれは依然として消えていないのである。

原告らのうちには昭和三四年度以降評定書Bを提出した者もあるがいずれも「自己観察ならびに希望事項」欄に記入しないまま提出したのであるからこれによつて原告らの同年度以降の自己観察表示義務は消滅していない。

なお、原告榛葉が昭和三五年度から昭和三七年度まで、原告登内が昭和三六年度から現在までそれぞれ組合専従者であつたことを認める。

(本案前の答弁)

一、本件訴は実施要領及び別冊に定める自己観察表示義務の不存在確認を求めるものであるが、右通達は任命権者である県教委が地方公務員法第四〇条にもとづいて長野県立学校職員に対する勤務評定を実施するにつき必要な行為の実行を地方公務員である原告らに命じた職務命令であつて、権利主体たる原告ら個人に対し何らかの不利益を課した命令ではなく、長野県の教育関係という特殊社会における内部規律的なものである。従つて右の点に不服があるならば、人事委員会又は公平委員会に対する勤務条件に関する措置の要求(地方公務員法第四六条)、不利益処分の審査請求(同法第四九条)等によつて教育関係内部において自律的に解決されるべきもので司法裁判所に訴求してその判断を求めることはできない。

二、原告らは毎年所属学校長からの職務命令によつて自己観察表示の義務を負担したものであるが、右義務の不存在確認はいずれも過去の法律関係の確認を求めるものであるから許されない。のみならず原告らはこれまでにB表を所属各学校長に提出している(但し昭和三五年度について原告宮崎真と同大熊淳を除く。)から自己観察表示義務の不存在確認を求める利益がない。

なお、原告榛葉は昭和三五年度より昭和三七年度まで、原告登内は昭和三六年以降現在も組合専従者であつたから勤務評定実施除外者(実施要領二(2)(二)規定)であつて、その間は自己観察表示の義務を負つておらず、同原告らの本件訴のうち右年度に関するものは確認の利益がない。

(請求の趣旨に対する答弁)

一、原告らの請求を棄却する。

二、訴訟費用は原告らの負担とする。

(請求の原因に対する答弁並びに主張)

一、第一項の事実は原告ら主張の通達が各学校にあててなされたことを除き全部認める。右通達は各学校長にあててなされたものであつて、原告らはこれによつては単に評定書Bを記入提出すべき抽象的な義務を負つたに過ぎず、毎年所属学校長から評定書Bを提出すべき旨の職務命令を受けたときに当該年度の評定書Bを提出すべき義務を負うものである。なお教職員の職務上の希望は義務についての自己観察、自己批判の結果として生ずるものであるから、自己観察と希望は表裏一体の関係にあり分離することができないものである。従つて評定書Bに記入すべき「自己観察」は「希望」との関係におけるそれであつて、「自己観察」を「希望事項」と別個に記載することを要求するものではなく、希望事項のみの記載が同時に自己観察の表示となるのである。原告らは所属学校長の前記職務命令により右の意味で自己観察の表示義務を負うのである。

二、第二項の事実中、都道府県教育長協議会が原告ら主張の日勤務評定実施を決議し、その主張の頃全国試案を作成公表したこと、県教委が原告ら主張の頃勤務評定実施の意向を発表し県規則試案を作成し、その後修正を加えたこと、原告ら主張の頃長野県知事林虎雄からその主張の内容の調停の申出があり、両者がこれを受諾したこと、原告ら主張の審議会がその主張の内容の答申を行い、その主張の頃林知事から調停案が示され、県教委はこれを受諾したが、組合側はこれを拒否したことは認めるが、その他の事実は否認する。

県教委の規則試案には被評定者の記入すべき付表がありこれに「希望事項」欄が設けられていたが、高等学校長会、小、中学校長会、信濃教育会等教育関係諸団体の修正意見を採用してこれを「自己観察ならびに希望事項」欄に改め、「職務について」「勤務について」「研修について」「その他」の観点を設定したものであり、更に審議会の答申に従い、右付表を評定書と改めたものである。

三、第三項の主張は争う。県立学校教職員に対する勤務評定は地方公務員法第四〇条にもとづいて実施すべきものであるが、その方法、基準等は任命権者である県教委の自由裁量に属するから違法の問題を生じない。

四、第四項の主張は争う。

評定書Bは原告ら教職員の適正配置、研修指導を最も合理的かつ効果的に行うための資料として原告らに提出させるものであるところ、その「自己観察ならびに希望事項」欄には原告らが職務上抱く希望との関係でその前提をなす職務、勤務研修に関する自己観察を自由に表現することを求めているのであつて、原告らが有する世界観、人生観、主義、信条に関する表示は何も求めていないのであるから、任命権者が右のような表示を求めることは憲法第一九条、第二一条、第二三条に違反するものではない。また公務員の職種に応じ適切な勤務評定の方法様式を採用することこそ「法の下の平等」というべきであるから、原告ら教育公務員のみが自己観察表示義務を負うとしても憲法第一四条に違反しない。

仮に本件職務命令が原告ら主張の自由権に対し何らかの制限を加えるものであるとしても、憲法の保障するの各種の基本的人権は各条文に制限の可能性を明示しているかどうかにかかわらず憲法第一二条、第一三条の規定から無制限のものではない。原告らはその自由意思にもとづいて地方公務員たる公立高等学校の教師に就いたのであるから、その結果県教委の指揮監督のもとにおいて教育の職を司るという特別な公法関係に服することはやむを得ないのであつて、本件職務命令はその職務の性質上必要な限度において原告ら主張の自由権に対し制限を加えるものであるから、このような制限を憲法は禁止しているのではない。

(証拠関係)<省略>

理由

一、本案前の答弁の当否

(一)、原告らは長野県立高等学校教諭として勤務するものであるから地方公務員としての身分を有し(教育公務員特例法第三条)、被告との間にいわゆる公法上の特別権力関係が成立していることは明かである。そして右の特別権力関係においては任命権者はその包括的支配に服する公務員に対し具体的に法律の根拠にもとづくことなく必要な命令(職務命令)を発することができる。すなわち職務命令はその内容の如何を問わず原則として適法であるといわねばならないのであるが、それが特別権力関係設定の目的を越えて公務員個人の私法上の権力や基本的人権を侵害する場合には違法となることもまた明かであるところ、職務命令は全部右の意味で違法となり得る可能性を備えているから、それが適法か違法かについては全部裁判所の判断に服するのが当然であつて、職務命令が特別権力関係の内部規律であり、原則として適法であることを根拠として裁判権の対象とならないと解すべきではない。そうだとすれば本件自己観察の表示を命じた職務命令の適否が裁判権の対象にならないという被告の主張は理由がないことが明かである。(なお本件訴訟は行政事件訴訟特例法の下においても行政事件訴訟法の下においても当事者訴訟である公法上の権利(法律)関係に関する訴訟として適法に提起できるものである。)

(二)、本件主たる請求は原告らが規則及び通達により負担した毎年評定書Bに自己観察事項を記入して校長に提出すべき義務が現在存在しないことの確認を求めるものであるから現在の法律関係の確認を求めるものであることは明かであり、過去の年度における自己観察事項の記入、提出義務の不存在確認を求めるものではないから、仮に原告らが過去の年度において右義務を履行したとしても訴の利益が消滅する理由はない。また原告榛葉が昭和三五年度より昭和三七年度まで、原告登内が昭和三六年度より現在に至るまでそれぞれ職員団体の業務にもつぱら従事するための専従休暇中の職員であつたことは当事者間に争がないが、原告榛葉は勿論原告登内も現に長野県立高等学校教員たる身分を有し将来専従休暇が終了すれば当然に勤務評定実施の対象となるのであるからなお現在において前記自己観察表示義務の不存在確認を求める利益を有するものと解すべきである。

二、自己観察表示義務の発生

原告らが県教委の任命を受け、別紙一記載の長野県立各高等学校教諭として勤務していること、県教委が昭和三四年二月九日規則を制定公布し(同年四月一日施行)、教育長が右規則第六条第二項及び第九条の委任にもとづき同日実施要領及び別冊を定めて県立各高等学校長あて通達し、その頃これが原告らの所属学校長に到達したこと、右別冊によれば長野県立高等学校教諭に対する勤務評定書は評定者である校長の記入すべきAと被評定者の記入すべきBから成り、Bのうち「自己観察ならびに希望事項」欄記入の指針が原告ら主張のとおり定められていることは当事者間に争がない。

ところで右実施要領、別冊(以下両者を合わせて通達という。)は形式は各県立高等学校長あての通達であるが、規則と共に昭和三四年二月九日付長野県報に登載されたこと(このことは証人新田稔の証言によつて明かである。)、右通達前文には「所属職員に対しては、この実施の趣旨について十分周知徹底されるよう格段の御配意をねがいます。」と記載されていて特に改めて被評定者に対し評定書Bの記載提出を命ずる職務命令を発すべきことを命じていないこと、その内容が教諭(助教諭、講師、実習助手も同じ。)全員に対し一律でありかつ極めて具体的であつて、学校長においてその裁量により各教諭に対し通達の内容を適宜修正加除して別個の職務命令を発する余地のないことに照らせば、右通達は評定書Bに関する限り実質的には同時に原告ら教職員全員にあてられた職務命令であると解するのが相当である。従つて原告らはおそくとも右通達が各所属学校長に到達し原告らにおいてその内容を知り得る状態におかれた昭和三四年二月九日頃規則施行の日である同年四月一日以降右通達が憲法及び法律に違反しない限り右通達の定めるところに従い評定書Bの所定欄に自己観察の結果を表示すべき具体的義務を負うに至つたものである。被告は原告らは毎年八月末から九月末にかけて所属各学校長から評定書Bの提出を求められたときにはじめて自己観察表示義務を負う旨主張するが、学校長の原告らに対する右の要求は勤評の実施時期が毎年九月一日と定められている(規則第三条第二項)関係上、すでに発生している毎年定期的になすべき自己観察表示義務の履行を促がすものに過ぎないというべきである。

なお被告は自己観察と希望は表裏一体をなすから原告らは自己観察事項のみを切り離して記入すべき義務を負うものではない、と主張するが、現実の人間の希望には自己観察(自己反省)とは無関係に生ずるものもあることはいうまでもないから、県教委の主観的な意図にかゝわらず原告らは右通達により自己観察の結果を希望事項とは別個に表示すべき義務を負つたものといわねばならない。

三、自己観察に関する通達成立の経緯

成立に争のない甲第一〇号証(原本の存在も争ない。)、乙第一ないし第三号証、第四号証の一、二、第五号証、第六号証の一、二、第七号証、第九号証の一、二、証人松岡弘、林虎雄、新田稔、糸魚川祐三郎及び鈴木鳴海の各証言を総合すると、次の事実を認めることができる。県教委は昭和三三年六月頃同三二年一二月二〇日発表された都道府県教育長協議会作成の「教職員の勤務評定試案」等を参考にし、教員の適正配置と研修指導に関する資料とすることに重点をおいて規則通達の試案を作成した。これによれば評定者が教諭に対する評定書(第二表)に記入する際の参考資料とするため被評定者が自ら記入すべき附表があり、これには被評定者の身上、職務勤務に関係のある環境、条件、その他の事情を記入する欄のほかに校長、教育委員会に対する希望を記入すべき「希望事項」欄が設けられていた。この「希望事項」は将来、研修の計画を立案する上でこれを重要な資料とすると共に評定が一方的なものでなく被評定者との相互理解の上で行われるようにという目的から設けられたものである。県教委は右試案につき同年七月七日、九月七日、一〇月九日の三回にわたり説明会を開き、長野県教職員組合、長野県高等学校教職員組合(以下両教組という。)小・中学校長会、高等学校長会、市町村教育委員会、P・T・A、の教育関係諸団体の各代表者等から批判と意見を求めた結果、両教組を除く諸団体から出された修正意見を斟酌して附表の「希望事項」欄を希望と自己観察は表裏一体の関係にあるとの見解にもとづき「希望事項ならびに自己観察」欄と改め、被評定者が記入しやすくする意図でその記載欄に職務、勤務、研修、その他についてという観点を設け、その記入の指針として「自己評価、自己反省にもとづいて、校長、教育委員会、その他に対する希望事項を各項目ごとに記入する。」と定めた。一方県教委はこれより前から勤務評定の実施自体に絶対反対を唱える両教組と勤評の実施につき度々話合いを重ねていたが、両者の話合は妥協点が見つからぬため同年一一月頃決裂寸前の状態になつた。そこで長野県知事林虎雄は同年一一月一三日両者に対し「一、勤務評定の取扱については審議会を設けて検討しその結論を得た上で定める。二、審議会の構成は県教委が知事と協議の上定める。」旨の案を示して調停を申出たところ、両者ともに無条件でこの調停案を受諾したので、県教委の諮問機関として「教職員の勤務評定に関する審議会」(委員長鈴木鳴海)が設けられ、右審議会は同年一一月二五日から昭和三四年一月二四日まで九回にわたり討議を重ねた結果、同月二六日県教委作成の右試案に若干の修正を施して勤評を実施すべき旨の答申をなし、特に前記付表については「教職員の良心および自発的創造的熱意を重んじ原案(県教委作成の前記試案)に示した付表をより重要視し、その自己観察ならびに希望等については特に活用するよう配慮することが必要であるから、単なる付表としないで評定書を評定書甲、付表を評定書乙のように改め、両者相まつてはじめて完備するようにすること。」との答申をした。県知事は同年二月二日県教委及び両教組に対し右答申書と同趣旨の調停書を提示し、県教委は右調停の趣旨に従つて評定者の記入する評定書を評定書A、従来の付表を評定書Bと改め、(甲、乙としなかつたのは両者に軽重のないことを示すためである。)両者相まつて勤務評定書として完備するように修正した上、「希望事項ならびに自己観察」を「自己観察ならびに希望事項」に改めその記載指針を「自己評価にもとづいて各Aの観察内容やBの各項目等を参考にしてつとめて具体的に記入する。」と修正し、これが前叙の通達となつた。そして以上の経過を通じ、右の自己観察事項表示の義務を教諭に課することが憲法または法律に違反する旨の主張や疑義は両教組からも審議会の委員からもなされたことはなかつたのである。

以上の事実が認められ、右認定に反する証人今村真直、清水正行の各証言及び原告大熊本人尋問の結果は前記各証拠に照らし信用せず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

四、自己観察に関する通達の憲法及び法律違反の有無

原告らは長野県の教職員に対する勤務評定自体が違法であると主張するが、本件規則及び通達のうち前記評定書Bに関するものを除く全部は評定者、調整者たる校長、教育長に対する職務命令であるから、その違憲、違法は被評定者である原告ら自身の法律上の利益には関係がない。そうだとすればその違憲、違法を理由として原告らに対する職務命令によつて発生した義務の存在を争うことは許されないと解すべきであるから(行政事件訴訟法第一〇条参照。)、この点に関する原告らの主張については判断を与えない。よつて以下原告らに自己観察表示義務を課した本件通達自体が違憲、違法である旨の原告らの主張について判断する。

(1)  憲法第一九条、第二一条違反の主張について

原告らは自己観察義務を課した本件通達は沈黙の自由を保障した憲法第一九条、第二一条に違反する旨主張する。そこで先ず沈黙の自由が憲法第一九条の問題であるか第二一条の問題であるかにつき考えるに、沈黙の自由は一見表現の自由のコロラリーとして表現の自由を保障した憲法第二一条の問題であるかのように考えられないではないが、表現の自由と沈黙の自由とはその性質上保障の対象及び公共の福祉による制限の点で別異に解さなければならないから、むしろ思想及び良心の自由を保障した憲法第一九条の問題であると解するのが相当である。(但し宗教上の信仰の沈黙の自由は第二〇条の問題である。)

教員が自己観察として自己の行為、態度、実績の是非、善悪、当不当を弁別するには論理上その基準となるべき一定の価値観がなければならないことは原告ら主張のとおりであるが、その価値観の全部が憲法第一九条にいう「思想及び良心」に当るわけではない。同条による「思想及び良心」の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観、人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られ、一般道徳上、常識上の事物の是非、善悪の判断や一定の目的のための手段、対策としての当不当の判断を含まないと解すべきである。(最高裁判所昭和三一年七月四日大法廷判決の田中裁判官の補足意見参照。)そうだとすれば右の「思想及び良心」に属する価値観にもとづかないで教員がその教育活動について自己観察をすることはもとより可能であるといわねばならない。例えば別紙二、に表示された事項のうち「児童、生徒の実態を把握して指導しているか」否かとか、「児童、生徒の性格、環境、希望、悩み等を理解して指導しているか」否か、或は「諸表簿の記録や書類の整理がよく行われているか」否か、「熱意をもつて仕事にうちこんでいるか」否かのようなことがらについては、「思想及び良心」に属すべき特定の価値観とは関係なくこれを自己観察(評価)することができることは多言を要しない。

前認定の本件通達成立の経緯に照らせば、(一)被評定者が自己観察事項を記入すべき評定書Bの制度は被評定者の自発的、創造的熱意を尊重した結果、いわば被評定者の利益のために設けられたものであること、(二)当初は「希望事項」欄であつたのを希望と自己観察は表裏一体をなすとの見解(これが正当でないことは前叙のとおりである。)にもとづき「自己観察ならびに希望事項」欄に改めたのであつて、その自己観察とは校長や県教委に対する希望の裏づけとなる程度のものを意味したこと、(三)県教委と両教組の話合い及び前記審議会の審議を通じ自己観察の表示が憲法に違反する旨の主張や疑義がなされたことのないことが明かであり、右の事実に本件通達中自己観察事項の記載指針については単に評定書Aの観察内容や同Bの各項目等を「参考にして」記入すべき旨が定められているだけで、記載事項が(例えばAの観察内容「について」というように)具体的に定められていないことを併せ考えれば、本件通達は「思想及び良心」に属すべき特定の価値観の具体的な表示をせずになし得る範囲での自己観察の表示を命じたものに過ぎないと解するのが相当である。

よつて本件通達が憲法第一九条、第二一条に違反する旨の原告らの主張は理由がないことが明かである。

(2)  憲法第二三条、教育基本法第二条違反の主張について

原告は研修についての自己観察を命ずることは憲法第二三条、教育基本法第二条に違反すると主張する。しかし本件通達による自己観察事項である「研修について」は、専ら職務として受ける研修すなわち県教委が計画し実施する研修(教育公務員特例法第一九条第二項)に関する自己観察のみを指し、原告らが個人としてまたは団体として行う研究と修養についての自己観察を義務づけたものでないことは通達の全趣旨に照らし明かであるから、原告らの右主張は理由がない。

(3)  憲法第一四条、地方公務員法第一三条違反の主張について

勤務評定の方法は公務員の職種に応じ適切に定めるべきであり、本件のような自己観察表示義務を教育公務員に課することは教育公務員の勤務評定を合理的かつ効果的に実施するために(必要不可欠ではないが)適切な方法であるということができるから、その結果他の公務員に対する取扱と不一致が生じても、憲法第一四条、地方公務員法第一三条に違反するとはいえない。

(4)  憲法第二三条、教育基本法第一〇条違反の主張について

原告らは、教員は教育の内的事項については職務上の独立が認められ、教育行政はこれに干渉することができない旨主張するが、憲法及び実定法の解釈上そのように解すべき根拠はない。すなわち憲法第二三条の学問の自由が当然教育ないし教授の自由を含むとはいえない(昭和三一年(あ)第二九七三号、最高裁判所昭和三八年五月二二日大法廷判決参照。)ところ、憲法には教員の職務上の独立については裁判官の職務上の独立に関する第七六条に類する規定がないことは勿論教育基本法第一〇条は学校教育法第四一条、第四三条、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第二三条、第三三条等を併せ考えるときは教員の職務上の独立を認めたものとは解することができない(教育基本法を準憲法的規範と解し一般の法律に優越する効力を認めることは憲法上の根拠を欠く。)から高等学校の教員が憲法第二三条、教育基本法第一〇条により職務上の独立を保障されるということはできない。学校教育法第五一条、第二八条第四項は単に教諭が現実に生徒の教育に当る職務を有することを定めたに過ぎず、他に教員に職務上の独立を認めたものと解すべき法規はない。そうだとすれば原告らの憲法第二三条、教育基本法第一〇条違反の主張はその前提を欠き採用の限りではない。

五、よつて原告らの請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 田中隆 滝川叡一 福永政彦)

別紙一<省略>

別紙二

観察内容(教諭・助教諭・講師・実習助手)

一、職務の状況

学習指導

1 学校の指導計画が適確に実施されるようにくふうしているか。

2 教材研究その他の準備を行つているか。

3 学習環境をととのえているか。

4 児童、生徒の実態を把握して指導しているか。

5 自発的な学習活動が行われるように指導しているか。

6 適切な評価を行い、指導の改善に役立てているか。

生活指導

1 児童、生徒の性格、環境、境遇、希望、悩み等を理解して指導しているか。

2 集団生活において、親和、平等、秩序が保たれるように指導しているか。

3 自主的に計画し実践するように指導しているか。

4 個々の児童、生徒の健康や安全について指導しているか。

5 進路指導を適切に行つているか。

校務の処理

1 分掌した校務を積極的に処理しているか。

2 諸表簿の記録や書類の整理がよく行われているか。

3 教材、教具、資料、その他の備品の整理、整とんがなされているか。

4 同僚と連絡して仕事をしているか。

5 必要な報告を適確に行つているか。

二、勤務の態度

1 熱意をもつて仕事にうちこんでいるか。

2 責任をもつて仕事にあたつているか。

3 公正な態度で仕事をしているか。

4 協力して仕事をしているか。

5 規律を守つて仕事にあたつているか。

6 建設的な意見をすすんでのべているか。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例